2021年05月27日

世にも不思議な的石の話



郷土の偉人と言われる名和長年は、廃流先の隠岐島から脱出し小舟で大山町(合併前の名和町)御来屋の湊に流れ着いた後醍醐天皇を助け、船上山に兵を挙げました。元弘3年(1333年)に起こったこの義挙は、鎌倉幕府の崩壊から建武の新政へと繋がっていきます。この功績により名和氏は建武政権で天皇の腹心として重用されますが、1335年に足利尊氏の軍勢に敗れ、京都の地で非業の死を遂げました。

[後醍醐天皇奉迎の図(大山町役場所蔵)]
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私が住んでいるところは平成の大合併で大山町となりましたが、その前は名和町、さらに昭和の大合併前まで遡ると名和村でした。今は「名和地区」と言われるこの地には、名和氏の屋敷跡や首塚など、同氏やその一族に関係する史跡がたくさんあります。その一つである「的石」は、五人張りの強弓を引き、一矢で二人の敵兵を射抜いたとされる名和氏が、弓の修練に使ったと言われている縦180センチ、横200センチの巨石です。なお、この岩の大きさについて大山観光局のサイト『鳥取大山観光ガイド』では、「縦170センチ、横150センチ」となっていますが、どう見ても横の方が長いので、私はコンベックスを持って行って実測しました。
さてこの的石には、雨上がりに陽が射した後のほんの短い時間だけ、表面に丸い的の形が浮かび上がるという逸話があります。実を言うと、私はその現象を40年くらい前に、一度だけ見たことがあります。昨秋、地域の人たちを対象としたウォーキングイベントがあり、案内役だった私はもちろん、的石の前でそのことを話しました。しかし10人あまりいた参加者の誰も、その話を信じる様子はありません。「いつか証拠を見せたい」と思った私ですが、そんな決意もいつの間にか日常の雑事に紛れ、意識から消え去っていました。

[的石]
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5月22日(土)に、車で外出していた私は家の近くまで帰ってきた時、それまで降っていた雨がちょうど止んだことで、ふと的石のことが頭に浮かび、そのまま現地へ向かいます。しかし的石には何の変化もなく、いつもの通りの大岩でしかありません。なおこの時の時刻は、午前10時50分頃でした。
いったん家に帰ったのですが、直後に陽が射してきたので、「もしや」と思い、今度は自転車で行ってみます。11時18分に再び的石の前へ立ったところ、岩の表面に白く浮かぶ的が目に入りました。「やった!」と小躍りする思いで、急ぎ写真を撮りまくります。

[的が現れた(11時18分に撮影)]
的石1 - 1.jpeg

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しかし、的は見るみるうちに薄くなり、11時23分にはほぼ消えていました。

[的が消えた(11時23分に撮影)]
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ちなみに初めて見た時は、もっとはっきりと出ていた記憶があります。この日も、もう少し早く行っていればより鮮明なものが見られたかもしれません。そのことは、少し悔やまれるところです。
ところで、この岩に水を掛ければ的の文様が浮き出るのではないかとは、誰もが考えることでしょう。私もそれをやってみたことがありますが、何も現れませんでした。他にもこれを試みたという話はたくさん聞きましたが、極めて稀に出ることがあるものの、ほとんどは失敗に終わっているようです。気温、湿度、日射しなどが微妙に関係しているのかもしれませんが、それにしても不思議なことです。





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posted by との at 11:50| 鳥取 ☔| Comment(0) | 非日常的な日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月18日

鳥取県民なのに、島根で3週連続トレイル整備



このところの週末は、3週連続でトレイルコースの整備ボランティアに参加しました。ちなみに私は鳥取県民ですが、現場は島根県ばかり。その理由は、“わきまえない発言”で衆目を集めた島根県知事さんに敬意を表するため、ということにしておきます。

【1週目】2月28日(日)「かんべの里」のトレイルワーク
松江市にある「かんべの里」の、トレイルコース整備です。昨秋ここで開催された100マイルレース「からすてんぐ100 」には、私も参加しました。以降、このコースの整備イベントが「トレイルワーク」として毎月行われており、この日が5回目。私は初回と今回の2度参加しています。10名ほどの参加者で、ぬかるんだ場所に溝を掘って笹を入れ、その上を木材で覆ってから落ち葉を敷き詰める作業を行いました。

作業 - 1.jpeg

私は落ち葉をかき集めて現場に運ぶ係。集めることは簡単でしたが、それを担いで運ぶのに、結構体力を使います。

落ち葉 - 1 (1).jpeg

作業は午前中で終了したので、午後は1.5キロの周回コースを勝手に10周ラン。暖かい一日で、作業もランも快適に楽しめました。

かんべの里ラン - 1.jpeg


【2週目】3月6日(土)赤浦海岸清掃活動
島根半島を走り巡るという仲間内イベントが計画されたのですが、そのコースの一部となる出雲市の赤浦海岸に漂着ゴミが多量にあるということで、走友のAさんの呼びかけにより行われました。私は今回のランイベントには出ませんが、コースの一部でも見ておきたいという下心もあって参加しました。

集まったのは、ランナーや地元の人など約30人。海岸では、ペットボトルや発泡スチロールなどをゴミ袋に入れ、1キロほど先にある漁港のゴミ集積場までトレイルを歩いて運び出します。

赤浦海岸 - 1.jpeg

袋に入りきらないほど大きなゴミもあり、中には冷蔵庫より大きなブイを背中に担いで運ぶ人も。背負子を用意してきた私は、背中と両手でゴミを抱え、この間のトレイルを何度も往復しました。

背負う - 1.jpeg

こうして3時間近く作業した結果、ゴミ集積場は一杯になりました。

ゴミ集積場 - 1.jpeg


【3週目】3月14日(日)天馬山登山道整備作業
合併して今は安来市になった広瀬町ですが、その中心部の広瀬からさらに10キロほど南へ進んだところに上山佐地区があります。ここでは地元の人たちが、戦国時代に山城だった天馬山(てんばやま)の整備事業に、以前から取り組んできたそうです。現在、天馬山山頂は児童公園となっており、山頂には展望台が、そして麓には東屋が整備されています。
今回の整備作業は、地元の地域コミュニティ再生会議などの呼びかけで行われたものですが、私は、最近この登山道をトレランのトレーニングとして使っている安来市の走友ハラペチーノさんからの情報で参加しました。


[天馬山山頂]
山頂 - 1.jpeg

この日の参加者は14人。勾配が急な斜面へのプラスチック製階段設置やロープ張り、ぬかるんだ部分に暗渠パイプを埋め込む作業などがあり、私は階段設置を担当しました。

ところでこの山の山頂近くに、桃が“パカッ”と割れたような形の高さ4m、横幅6mほどもある大きな岩があります。地元では「割れ石」と言われているこの岩が、『鬼滅の刃』に登場する岩に似ているとSNSで発信され、このところ登山者が急増しているそうです。

[上から見たところ]
割れ石(上から) - 1.jpeg

[下から見たところ]
割れ石 - 1.jpeg


事前にその情報を得ていた私は、ぜひこれを見てみたいと思っていたのですが、なんと幸いなことに、このすぐそばの階段の設置は、私ともう一人のスタッフが担当することになりました。今後この岩を見に来る人たちは、私も設置に関わったこの階段を踏みしめることになるのです。誰もそんなことを意識しないのはわかっているのに、なんか嬉しい。こんな私は、まだ子どもなのでしょうか?

階段設置 - 1.jpeg

作業で汗だくになりましたが、参加賞の「TENBAGON」の缶バッチをもらうとランニングウェアに着替え再び天馬山へ。1周1.8キロの登山道を、5周走ってから帰りました。

缶バッチ - 1.jpeg



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posted by との at 06:10| 鳥取 ☀| Comment(0) | 非日常的な日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月17日

梶原の佐渡五輪を探して山中探索


「梶原(かじはら)の郵便局から、南の方へ十分間くらい歩いた山の中に、佐渡五輪(さどごりん)と呼ばれる供養塔が一つ建っています。
近頃はあまり人々が通らない、塔谷(たんたに)と呼ばれる静かな山林の中にある、高さ二メートルほどの大きな五輪さんです。
この佐渡五輪には、次のようないい伝えがありあります。
むかし、佐渡の国から来た旅人が、ここで病気になって亡くなられました。この旅人が自分の故郷佐渡を大変こいしがりながら、亡くなったということで、村の人たちが、あわれに思って、この五輪を建て供養をしてあげました。そのようなことから、この五輪を佐渡五輪(と呼ぶようになったようです」


『ふるさと名和』は大山町と合併する11年前の平成6年に、旧名和町の教育委員会が管内の児童生徒の郷土学習資料として作成したB5版64Pの小冊子。この中で、史跡名所の一つとして「梶原の佐渡五輪」が、上記のように紹介されています。

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名和地区の梶原集落から少し入った山中にあるこの供養塔を、私は30数年前に地元の人の案内で、見に行ったことがあります。高さ2メートルもの大きな石塔は、圧倒的な存在感。人里からさほど遠くない場所とはいえ、人が入ることがほとんどない山道の先にこれがあるのは、ある意味“場違い”で、その時は非常に謎めいた印象を持ちました。

梶原の佐渡五輪(ふるさと名和) - 1.jpeg

それから数年後、あらためてこれを見たくなり、一人でここへ向かおうとしたことがあります。しかし、しばらく人の手が入らなかった山道は以前と一変。生茂る樹々に行く手を阻まれ、前へ進むことができませんでした。
その後ずっと気になっていた私は、「思い立ったが吉日」とばかりこの秋、木の枝をかき分けて山へ入って行きました。9月中旬から10月下旬の間に、5回か6回チャレンジしましたが見つけることはできず、「もう探し尽くした」と失意のまま山を降りたときでした。トレランポール手にした私の姿を見た地元のMさんが、「トレッキングか?」と聞いてきました。訳を話したところ、「石塔は(その日に私が入ったところから)もう200mほど先だが、木が茂っているので入るのは大変だろう」と教えてくれました。
この2日後、町の公民館職員I女史から私に、「梶原の佐渡五輪を見たいので案内してほしい」という電話が入ります。大山町との合併後の2010年に発行された『続・名和町誌』の編集に関わった彼女は当時、この五輪塔のことを載せたいと思い、現地までの案内を何人かに頼んだそうです。しかし、「道が荒れてしまって入れない」とことごとく断られて現地確認ができなかったため、町誌への掲載を断念したとのこと。
彼女はこのことが心残りだったそうですが、近く奈良県から来町する文化財の研究者にこれを見せたいと思い、私にヒントをくれた地元集落のMさんに電話で案内を打診したそうです。そうしたところ、「とのさんが場所を知っているので聞いてくれ」と言われたとのこと。
事実とは多少異なりますが、こういう巡り合わせが重なって11月3日の文化の日に、先遣隊の一員として現地を探索することになりました。
探索にはI女史の呼びかけで、町の教育委員会のN課長と文化財を担当するM主任、郷土史家のKさん、それにこの山の地権者のHさんも同行されるとのこと。私が同級生のY君を誘ったので、都合7人の強力な布陣となりました。

なお、地権者のHさんは先代から「盆と正月には、必ず花を供えてお参りをするように」と言われていたそうです。しかし、自分の代になってから長らく行くことがなかったのでバチが当たるのではないかと、たいそう気にしておられたとのこと。今回、我々と一緒に行くことをとても喜んでおられました。

チーム - 1.jpeg

さて当日は、午後1時30分に旧名和保育所からスタート。県道と集落道を400メートルほど歩いた後は舗装が切れ、山の中へと入って行きます。

ここから山へ入っていく.jpeg

そこから現地まではわずか600mほどですが、ほどなく道と山の見分けが付けにくくなります。

小枝をかき分ける.jpeg

トレイルランナーの末席を汚している私ではありますが、さすがにこれでは走れません。今までに沢山のトレランコースを当たり前のように走ってきましたが、それらが多くの人の大変な努力と労力によって切り開かれ維持されていることを、あらためて強く認識したしだいです。

ジャングル - 1.jpeg


森の中を15分ほど進んで現地と思われる付近に来ると、道は完全になくなってしまいました。ここからはそれぞれが、思い思いの方向に分かれて探し始めます。その直後、私が進んでいた方向とは逆の方から、「あった!」という声が聞こえました。踵を返して50mほど行くと、立ち尽くしているメンバーたちの視線の先に、見覚えのある石塔がありました。

この日、これを最初に見つけたKさんは、私が初めてここに案内された時に同行した一人ですが、当時の記憶から、山の中の平たい場所を意識して探していたそうです。



視線の先に.jpeg

文化財調査の長いキャリアを持つ教育委員会のN課長は、「大きさも形式も、今までに見たことのないもの」と驚きを隠さず、「見ることができてよかった」と言っていました。

梶原の佐渡五輪 - 1.jpeg

現地から帰る時には次に来る時に備え、N課長とI女子が、迷いやすい場所に目印となるテープを張っていました。

テープを張る.jpeg

さてその次の日曜日、私は地区のイベントがあって同行できませんでしたが、奈良市にある元興寺文化財研究所の副所長で大阪大谷大学で教鞭をとる狭山真一氏が、N課長や公民館のIさんなどの案内で、ここに来られたそうです。
石塔を見た狭山氏によれば、制作年代は鎌倉時代あるいはそれ以前。横にある割れた傘もこの塔の一部で、本来は高さが3mほどある三重の塔だったと思われるとのこと。西側には土塁の跡があることから、この石塔は単体で存在したのではなく、この一角が寺院だったと推測されるそうです。
さらに、これだけのものがあるということは、これを作らせた有力者がこの地にいたはずとも指摘されたということです。
石は言葉を発しませんが、数百年も前にこの地に建てられた謎多き石塔は、我々に色々な空想を掻き立てさせます。時空を超えた遥か彼方から聞こえてくるかすかな声に、耳を澄ませてみようと思います。



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posted by との at 06:22| 鳥取 ☁| Comment(0) | 非日常的な日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月10日

肺炎の疑いからプチ新型コロナ疑惑へ


軽い咳が出はじめたのは、熊本城マラソンを走った翌日の2月17日からでした。普段ならこの程度で受診などしない私ですが、1月の左手首骨折の受診遅れに懲りていたので、18日(火)には早々とかかりつけの内科を受診。“普通の風邪”と診断され、薬を一種類処方されます。
しかしその後、咳がしだいにひどくなってきました。21日(金)に再受診をしようと内科に電話。国内でも新型コロナウイルスの感染が広がりはじめていたので、予想したとおり、一般の患者とは切り離された発熱外来棟での受診となります。

発熱外来棟.jpg

このときはインフルエンザの検査をしましたが、感染していないとの結果。ただし血液検査の炎症の数値がだいぶ高いとのことで、これを抑えるために薬が3種類に増やされました。しかし、この日の夜には37.7の微熱が出て、なんだかいやな予感です。

薬.jpg

22日(土)から24日(月・祝)の3連休は、自宅でおとなしく過ごしました。この間、熱は出ませんでしたが、咳は相変わらずです。25日(火)は普通に出勤しましたが、夕方が近づくにつれ咳がひどくなり、マスクをしていても周囲に気を遣わないではいられません。そのため、翌日から仕事を休むことにしました。

26日(水)からは再び微熱が出たので、27日(木)に3度目となる内科の受診。血液検査とレントゲン検査をしたところ、ドクターから「軽い肺炎の疑い。ただし肺炎の診断はレントゲンでは難しく、CTを撮らなければはっきりしない」と言われます。
この日から、3月1日(日)までの土日を含めた連続4日間、炎症を抑える為の点滴を受けました。私一人のために土日も出勤してくださったドクターと看護師さんには、申し訳なくて頭があがりません。

点滴.jpg

しかしこの間、咳はまずますひどくなり、さらに土日は38〜39度の高熱も出て体もだるく、症状はピーク。しかもこの時点で、「37.5度以上の発熱が4日以上間続く」という、例の新型コロナの疑い基準に合致することになります。
3月1日(日)の診察の際にはドクターから、「明日は再び血液検査とレントゲンをし、その結果をもって総合病院へ紹介します」と言われました。さらに、「たぶん新型コロナではないでしょうが、その可能性が完全には排除できないので、紹介の際には保健所へ相談するケースになると思う」とも付け加えられます。私は、「そうしてもらった方がいいです」と咳き込みながら答えていました。


[どこか懐かしい新型コロナ。実は小学生の頃、この車がうちにありました]
新型コロナ−2.jpg

3月2日(月)の朝、目覚めると全身に発疹が出ており、びっくりです。診察したドクターは、“薬疹”との見立てでした。なお、「血液検査の数値を見ると、炎症はやや改善しているが、レントゲンの画像では、左の肺の下の方に肺炎の影が見える」とのこと。念のために2度目のインフルの検査もしましたが、期待に反し“陰性”の判定となります。
これにより、ドクターから米子市の総合病院へ受け入れの依頼がされましたが、総合病院からOKの返事が来るまでに、1時間以上もかかりました。その理由を後ほど総合病院の医師から聞くことになるのですが、一応新型コロナの可能性がゼロではない患者なので、総合病院から保健所へ、「受け入れて良いか?」との照会がされ、そのやりとりに時間を要したためだったそうです。
この判断の材料は内科での診察データしかないわけですが、保健所からは、「新型コロナではないと思われるので、“一般の患者”として受けてください」との指示があったとのこと。
それにしても、患者を診てもおらずたぶん医師でもない保健所の人が、「新型コロナであるかないか」を判断して現場の医師がそれに従うというシステムは、いかがなものかと思います。

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さてこの日の午後、紹介された総合病院へ向かいましたが、たぶん“即入院”だろうと思っていたので、その用意をしていました。しかし、ここでの診察の結果、まさかの“どんでん返し”が起きます。なんと撮られたCT画像には、肺炎像がまったく見えなかったのです。



CT画像.jpg

ということで、診断は肺炎から“気管支炎”に格下げ。医師からは、「自宅で安静療養。入院と同じ生活を自宅でせよ」との指示を受けます。「何日で治りますか?」と聞いたところ、「早くて1週間」とのこと。いずれにしても、肺炎の疑いとともにもやもやと燻っていた“新型コロナ疑惑”は、一瞬で消え去りました。
その後は医師の教えに忠実に従い、立てこもりならぬ、ひきこもり生活を続けた私です。そうしたところ咳も薬疹もほぼ治まったので、3月10日の火曜日の朝に改めてかかりつけ医の診察を受け、お墨付きをもらった上で2週間振りの職場復帰を果たしました。なにはともあれ、目出たしめでたし。
とはいえ、熊本城マラソン以来、3週間以上まったく走っていません。ランナーとしてのリハビリには、いくらか時間を要しそうです。



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posted by との at 20:30| 鳥取 ☔| Comment(0) | 非日常的な日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする